被害、地図屋事務所

「……だ!」
 だ? と同僚の妙な声に首を傾げ、ファムは車を降りる。先に事務所へ向かったクオリーが、入口で固まっていた。
 事務所、といえば聞こえはいいが、要は地図屋のための飯場だった。事務員が常駐しているわけでもない。雨露をしのげればいい簡素な小屋に、机がいくつかと炊事施設、簡易寝台があるだけだ。地図屋が現地調査を行う乾季の間以外は、無人で放置される。「植生管理局 第五管区 足留埠頭出張所」の看板ばかりが仰々しい。
 その現地調査シーズン初めの日、ほぼ半年ぶりに開錠しに来て、いきなりクオリーの「だ!」だった。
 草生した敷地を横断し、立ち尽くしたままのクオリーの脇から中を覗き込む。外の明るさに慣らされた眼が、屋内の薄暗さに順応するまで数秒。
「……うっわ!」
 ファムは大差ない呻きを漏らす。
 内部は地震か嵐にでも見舞われたような有様だった。食器や食料の収まっていた大きな棚が倒れ、皿が盛大に割れて飛び散っていた。米や乾麺のパッケージが破れ、中身がぶちまけられて陶器の破片に混じる。それを覆い隠すかのように、無数の書類が散乱している。そして全てが土埃にまみれていた。
 足下の割れた鉢を蹴ってどかしながら、クオリーは足を踏み入れた。ファムはまだその決心がつかない。これは何事なのか?
 視線を巡らせれば、向かい側の窓の一枚が破れている。
「野犬、か何かですかね」
 思いついたのはせいぜいその程度だった。空き巣にしては、脈絡の無い荒らし方のように感じる。何らかの理由で窓が割れ、風雨が吹き込んだのだとしても、棚が倒れるようなことはないだろう。
「いや、悪くない線ではあるんだけど」
 クオリーはしゃがみ込み、四角く固められていたはずの乾麺の破片を手にとった。大きく半円に削り取られている。見るからに歯型だ。
「野犬のサイズじゃないよな。ここまで大きいと」
 そこで言葉を切ると、黙ってファムを見上げてきた。
「……虎?」
 誘導された返答に、クオリーは頷いてみせた。
「え? ……えええぇえっ? いやでもここはもう森の外ですよ? 奥の方の、それこそキャラバンの農場でも襲った方が沢山食料だってあるのに」
 声を上げ、ファムは背後を振り返る。来た道を少し戻れば、大きな通りに民家や商店もある。人々の生活はすぐそこだった。そんなところまで虎が出てきたというのか?
「農場もここ最近被害が多いからな。対策強化してるらしい。知ってるか? 今年に入って虎、三頭駆除されてる。もう四百頭余りしかいないのにな」
「…………」
 クオリーの話に、ファムは言葉を返せなかった。室内に足を進める。紙切れや陶器の破片を避け、ふと気がついてしゃがみ込んだ。積もった土埃に、うっすらと一つ、足跡が見て取れた。猫の手型をそのまま拡大したかのような、可愛らしいとすら思える跡だった。
「一番の被害者は、俺たち人間より虎の方なのかもしれませんね」
「ん?」
「〈大繁茂〉の」
「……ああ、そうだな」
 二十年前のプラーンコーン〈大繁茂〉以来、熱帯雨林はずたずたに掘り返され、今も巨大な人工植物に占拠され続けている。天地講の焼光テロで無残に焼かれ、キャラバンの大規模な入植で開墾され、原生のままだった森はわずか二十年ですっかり姿を変えた。その広大さ故に、小さな人間一人足を踏み入れても、さして影響は感じ取れないが、それでも虎は激減した。
 クオリーは首を振り、がらくたを避けながら冷蔵庫へと足を向けた。そちらに害はないようだった。確かに半年の間通電していない冷蔵庫に、食料は残っていない。
「なあファム、お前調査中に虎に遭ったことあるか?」
「遭った、っていうか。一度遠くの方にあの縞模様を見た気がする、ってくらいですけど」
「同じようなもんだな。俺は声を聞いたことがあるだけだ。本当に虎だったかどうかは確証がない。お前の伯父さんは? 聞いてる?」
 昨年亡くなったファムの伯父は、〈大繁茂〉直後から地図屋を続けていた、言わば最古参だった。
「何回遭ったかは知らないですけど。独りで三時間、睨み合った話とか聞いてます」
 うわ、とクオリーは心底嫌そうに呟く。
 ぞっとしないよな、とファムも思う。過去の地図屋たちや、農園の被害は散々聞かされている。寝ているところを襲われた、だの、腕をちぎられた、だの。それも生き残った人の話だ。
「まあ、来たのが何日か前でよかったんじゃないか? 鉢合わせにでもなったら洒落にならないし。他所に被害があった、って話は今のところ聞かないし。虎さん無事に森にお帰りになってくれたなら」
 肩を竦め、クオリーは手にした小さい瓶をあおった。
 あ、とファムは指を指す。どうやら冷蔵庫に放置されていたビールを見つけたらしい。
 どうせ今日は仕事にならないさ、との言い訳めいた反応に、確かにな、と頷く。いくらなんでも半年放置されていた生ぬるいビールを飲みたい気にはならなかったが。
「で、この後は? ……連維局に通報か? やっぱり」
「え? そうなるんですか? やっぱり」
「じゃないの? 虎の仕業に違いないにしても。一応。不法侵入があったかもしれない、ってことで」
 えええええ、とファムは呻く。連維局を相手にするのも、虎に遭うのとは違う意味で避けたかった。
 おもむろに冷蔵庫に歩み寄り、冷えていないビールを取り出す。どうせ今日は仕事にならない。
「それ開けたら通報して」
「いや、任せますよ。クオリーさんの方が肩書き上でしょう」




スマトラトラに敬意を表して。
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