散華会(さんげえ)、猫眉河

 波間には色鮮やかな花紙が無数に浮かぶ。流し燈籠の炎が点々と揺れる。蓮の花を模した紙片が絶え間なく降り注ぐ。中には紙銭も混じる。火の着いた爆竹も。橋の上から、岸の巨大な集合住宅から、人々が歓声を上げながら、放つ。
 護岸ブロックに身を寄せるように、水上バスは停泊していた。添乗員席でアミは溜息をつく。塗装も剥げかけた年代物の船に、年越しにふさわしい装飾は何もない。そもそもこんなに遅くなるはずではなかったのだ。夕方には帰港し、今頃は自室でビール片手にカウントダウンを聞くか、女友達と連れ立って、外の人々と同じように散華会を見物に出るか、いずれにせよとっくに、野暮ったい水色の制服は脱いでいたはずなのに。
「連維局のくそったれが」
 掌で舵輪を叩き、操舵手のシンがぼやく。連合維持局の検問で長いこと停められた挙句、今度は御華船が通るから、と一時航行禁止、こんな場所で足留めを喰らった。乗客のいない回送の船でアミはやることがなく、操舵席のすぐ後ろで頬杖をついているだけだ。うんざりしてるのは私よりもシンの方かもね、とアミは思う。
「年、越しちゃうね。やだなー、仕事終わらないまま、あんたと二人でなんて」
 アミの軽口に、シンは振り返りもせず、面倒くさそうに応じた。
「うるせえ、お互い様だ。俺よりボー爺さんの方がよかったか」
「……うーん、どっちもどっちかなあ」
 七十歳の現役操舵手ボー老人は、とにかくおしゃべり好きで、業務中だろうと構わずに若い頃の武勇伝を語りたがる。操舵の腕にまだ不安はないが、アミは少々苦手にしていた。
 一際大きい歓声が上がり、爆竹が鳴り響く。外から煙が流れ込み、アミは咳き込んだ。
 遠くからの歪んだ鉦の音、太鼓の音。打ち鳴らされる鉄琴と、風に乗って揺れる御詠歌。桃色のレーザー光が夜空を貫いて踊る。アミは窓から身を乗り出した。河上からゆっくりと、一際派手に飾り立てられた船が下ってくるのが見えた。
「御華船、来たよ」
 不機嫌そうなシンも、首を巡らせて後方を見遣った。
 御華船の船首には露台が組まれ、大量の衣装と装飾品に埋れた幼女が座っている。「御華堂様」と呼ばれる七歳の少女は、化粧した顔に笑みを貼りつかせ、時々手を振り、時々籠に手を突っ込んでは、生花を河へ振りまいていた。船の両舷には木蘭色の法衣を纏った僧が居並び、盛大に生花を放っている。見物の小舟が群がり、我先にと網で花弁を掬い上げる。
 年越しの法会、「散華会」のクライマックスだった。昔は水をかけ合う行事だったらしいが、寺院が御華堂様を前面に出すようになってから、水ではなく生花を撒き散らすように変わったという。
「今日一日の為だけに、北辺からトン単位で輸入してるらしいぜ、あの花」
 現実的な話に、アミはシンの座る操舵席の背もたれを叩いた。
「ほんっと余計なこと言うわよね、あんた。折角綺麗なのに」
 シンは反論せず、黙って肩を竦めた。
 煙と花の甘ったるい匂い。胸焼けのような気分になって、アミは息をつき、座席に腰掛けた。
「……私ね、誕生日が七月二日なのよ」
「あ? 今から言われても、三ヶ月も先の話じゃ、確実に忘れるぜ」
「そうじゃなくて! 御華堂様が選ばれるのが七月七日でしょ。これだけ誕生日が近ければ、絶対なれると思ってたの。……結局、もっと近い娘がいたらしくて、私に御華堂様は回ってこなかったんだけど」
 御華船に乗っているのは、中央寺院が選出した御華堂様だった。それとは別に、各地区の寺院も地元の少女を召し上げる。
「ふぅん。お前、あんなのやりたかったのか?」
「小さい頃はね。あんな綺麗な着物来て、ちやほやされたかった」
 大人たちに傅かれ、有難がられる存在。御華堂様として召し上げられると、丸一年は親許を離れて寺院で生活しなければならないのだが、子供のころはそんな悪い要素までは意識できなかった。七歳の七月七日を指折り数えて楽しみにしていたが、寺院からの迎えはなく、よその知らない少女が御華堂様としてあの華やかな衣装を着ることとなった。
 やらなくてよかったのかな、と今となっては思う。寺院での一年間、何をやるのかは分からないが、七歳で親許から離れるのはやはり寂しそうだ。
 歓声が頂点に達する。花弁が音を立てて水面を打ち、目の前を今、御華船が過ぎていく。
 露台に座る少女の笑顔が向けられ、飾り気のない水上バス、制服姿のアミとシンの上を滑る。‐‐そして、固定される。
 何? とアミは口の中で呟く。御華堂様に見つめられてる? うちの船が? 私が? 何で?
「おい、アミ!」
 シンの鋭い声にアミは弾かれるように立ち上がる。示される方に視線を向ける。操舵席の無線機が、か細い少女の声を途切れ途切れに受信していた。
『……助けて。もういや。……おねがい、たすけ……』
「な、何? 救難信号?」
「違う。……多分、今の御華堂様からだ」
 視線を上げるが、御華船は過ぎたあとだった。船首の露台に衣装の塊が見えるばかりで、少女の顔はもう見えなかった。無線機もすぐに沈黙した。
「御華堂様が無線通信?」
「副脳化しているなら、あり得ない話じゃないだろ」
「あの歳で?」
 シンは返事の代わりに溜息をつき、また掌で舵輪を叩いた。