蓬莱島

 八鶴楼が陥落したという。
 李芝浜も耳を疑った。あれは城市心臓部に建つ摩天楼、確か階層は二百を超えていた。落ちた、とは、ほんの数階沈んだだけなのか。あるいは丸ごと地底に持っていかれたのか。
 海辺の低い望楼からでは、さすがに様子は伺えない。遥か島中心部の高楼群を振り仰げば、幽かに煙が上がっているようにも見える。が、霞に巻かれているようでもある。
「まあ、丸ごと落ちててもー、おかしくないんじゃなーい? 慎重に真下を掘ってけばー、ぼこーっと一気にいくこともあるっしょー」
 第一報を持ってきたその声は呂律が怪しく、芝浜は眉を寄せる。相手は海風に蓬髪を煽られ、麦藁帽子を押さえつけていた。
 線の細い端正な容姿。対して身なりは酷い。破れたジーンズに片方だけのサンダル、藍のシャツはボタンを掛け違えている。そして手には常にフラスクボトル。欄干に腰かけ、壜をあおっては光る水平線を眺めている。
 潮の香りに混じって酒臭い。
「……藍采和」
「フルネームで呼ぶなーい」
「養素」
 そう呼べというから芝浜も付き合うが、今どき字もくそもないだろう、とは思っている。
「お前、ひょっとして知っていたのか?」
 養素は黙って肩をすくめた。同時に吃逆。
「警告したところで、ねえ。先生の仕事が増えるんだしー、いいじゃない? 別に」
「仕事じゃない。鬼の侵出に歯止めがかけられれば、それに越したことはない」
 よく言うねー、と明らかに聞こえよがしに養素は言う。鬼払って飯食ってるくせになー。
 芝浜は無視する。飲まずにいられない奴にどうこう言われる筋合いはない。
「行くぞ」
「ええー、風が気持ちよくて、動きたくなー……」
 芝浜は容赦なく、養素の襟首を掴まえて立たせる。こいつがいなくては話にならない。
 欄干に足をかけ、無造作に跳ぶ。ひらりと降りれば隣の楼、屋根の鴟尾に取りついて、甍の波を見晴るかす。目的地までの道のりを確認。大丈夫、楼閣づたいに行けるだろう。
「あちー、屋根熱ちー、足の裏熱ちー」
 養素のぼやきを背に聞き、来ていることを確認する。足が熱いのは自業自得だ、早くまともな靴を履け、とは何度も言ってきた。
 芝浜の身は紙のように軽い。うまく風に乗れば、紫華楼よりも高く浮く。ここまで軽量化できた者はそういない。付き合えるのは神仙くらいだった。
 だからといって、相棒がアル中仙人なのもどうなのか。芝浜は常々思いつつ、これまで問題もないので、ずっと養素を使い倒している。報酬は安酒でよい、というのも助かる。
 吹き上げる海風を待ち、背に受けて舞い上がる。空気を孕む服が重い。くるりと回って減速し、黄色く照った瓦屋根へ。すぐさま蹴上がり次の楼、避雷針で向きを変え、鵠の群を跳び越える。
 楼閣が足場なら、城市はひとつの山、中心目指して跳ぶたびに、次第に高度を増していく。気がつけば雲の中、視界はぼんやり白い。八鶴楼のあった辺りは、土煙か火の煙か、とにかくきな臭いものが立ち込めている。程近い中堅楼の屋上で一旦留まり、状況を伺うことにする。
 覗き込んでみれば、予想以上に「抜けて」いた。
 この辺りの摩天楼は防衛のため、身を寄せ合うように密集し、廊で繋がり合っている。一棟だけを落とすのは困難だろう、と芝浜は思う。だが、沈めたというよりまるで摘み取ったかのように、八鶴楼だけが消え失せて、井戸の底のような闇が淀んでいる。
 隣接する楼閣から覗き込む人々。時折落ちて、悲鳴と共に消えていく。千切れた空中回廊が、根元からぼきりと折れて後を追う。
「行くかい、先生?」
 いつの間にか隣には養素が立ち、強風に帽子を押さえている。フラスクボトルは尻ポケットに。
 芝浜は眼鏡をかけ直し、ジャケットの内ポケットから革財布を取り出す。中身を無造作に掴む。手にしたのは紙幣ではなく、符。
「僕の身なりに文句つけるならー、自分のレトロ趣味も、どうにかした方がいいんじゃないのー? そんな、財布だの、眼鏡だのさー」
 黙殺し、財布をしまう。分かっている、拘るのもナンセンスだが、全てを最適化してしまっても自分というものが何も残らない気がして、削れないのだ。余計なモノを外してしまえば、更に身が軽くなるのは分かっているのだが。
 養素へ一瞥をくれ、芝浜は黙って坑へと跳び下りる。
 自由落下も速度は遅い。紙が舞うのと同様に、風を受けて浮いてしまう。周りの楼の欄干に窓に、見物人が鈴なりなのが見てとれる。囃し立てる声、ばらまかれる紙銭。時折爆竹も混じる。顔のすぐ傍で破裂して、芝浜は顔をしかめ悪態をつく。が、養素は笑顔で手を振り、声援に応えている。
「野次馬をかまっている場合か」
 言い放つと、芝浜は大きく蜻蛉を切り、突き出た廊の残骸に降り立つ。軋んで大きく揺れるが、崩れはしない。
 地面に程近いはずだが、下は黒々と闇に淀んでいる。件の八鶴楼が、丸ごと地底に引きずり込まれたことを示していた。楼の中にいた多くの人々も、そのまま持っていかれたはずだ。気の毒ではあるが、今ごろは本人もよく分からないまま、鬼に成り果てているだろう。
 人々は天こそ安住の地とばかりに、高く高く楼閣を築く。鬼はそれを引きずり込み、地下に国を作り上げる。おそらくは地上と同じくらいの規模の城市に成長しているだろう。
 際限がない、と芝浜は思う。天を仰ぐ。歪な円形に切り取られた空の小ささが、その距離を強調しているようで、気が遠くなる。
 だが、他に生き残る術がないのだ、この島では。
 地の底から生暖かい陰気を孕んだ風。苦力たちはまだか、とさらに頭上に注意を払う。だが紙銭の舞う様子しか見られない。――間に合わないだろう。しばらく相手をしなければ。
 と、不意の突風に足下をすくわれる。隣の楼に打ちつけられそうになり、どうにか立て直して壁を蹴る。手近な露台に取りついて、体勢を整え息をつく。
「先生ー、ぼーっとしてちゃだめだよー」
 同じ露台に養素が降りる。手すりの上に飄然と立ち、酔眼薄笑いで芝浜を見下ろした。
 くそったれ。口の中で毒づいて、芝浜は返事もしない。
 総毛立つほど陰気が濃くなる。来たな、と身構えるなり、姿を現す。闇の淵からのっそりと。皮膚が青黒く変色し、眼窩の落ち窪んだ鬼が――先ほどまで生きて八鶴楼で生活していた人の、成れの果てが浮いてくる。
 即座に符を切る。声なき呻きを引きずりながら、鬼は坑へと消えていく。だが入れ替わりに二体、三体、闇の中から姿を現す。生前のままの身なりで、女子供も多分に混じり。
 壁を蹴る、続けて符を切り、対岸に着く前に数体を帰す。だがその倍以上が浮かび上がり、遙か彼方の天を目指し、あるいは仲間を増やそうと、生きた人たちへ殺到する。芝浜にも寄ってくる。符を切る手が追いつかず、力任せに蹴り落とす。足場のない中、周囲の楼に取り付きながらの降魔は難しい。
 数も多すぎる、と芝浜は唇を噛む。落ちた楼の規模に比例して、現れる鬼も多くなる。
 悲鳴が響く。人間に取り憑いたのがいたようだ。声の主を捜しもせず、無言で眉を寄せる。どうせ今から行っても間に合わない。
 力不足だ、と自己嫌悪に囚われそうになる。人の身でやれることに限界が、とはいえ。
 場違いに脳天気な声が響く。
「はーい、いっくよー」
 見上げれば、養素が頭上を軽々と跳び、手にした帽子に片手を突っ込んでいた。
 掴み取ったのは花弁の塊。無造作にばらまけば、風に巻かれて四方に舞い散る。
 赤に朱に白に。毎度のことながら、芝浜はその鮮やかさに目を奪われそうになる。だが惚けている場合ではなかった。
 花弁を浴びた鬼が動きを止めている。その間にできる限り、地底に返さねば。
 養素は舞い降りて、鬼の額をそっと指で突く。それだけで相手は浮力を失い、闇の向こうへ落下していく。
 こいつがいれば十分じゃないか、と符を切りながら芝浜は思う。自分が拙い業で降魔などせずとも、仙人一人で片がついてしまう。
 そして、待ちかねた大音声が降ってきた。
 側面の楼に貼りつくように待避。苦力たちは口々に奇声を発し、坑の上から落ちてくる。手にはそれぞれ長い竹竿。打ち鳴らす小気味のいい音を響かせながら、見る間に格子状に組み上げ、底を塞いでしまう。
「よう、お疲れさん」
 傍にいる苦力の一人が、声をかけてよこす。あんたもな、と芝浜は応じる。――唐突に、全て終わった。
 竹の蓋の上を歩いて中央へ。頭上を塞がれた鬼たちが、下側に何体も取り付き、怨嗟の呻きを上げる。隙間から伸ばしてくる手を避けながら進む。
 符を一枚切り、蓋の表面に貼りつける。裏側の鬼たちは全て、闇の底へ落ちていった。
 しばらくすれば、役人たちが来るだろう。現場を検分し、芝浜と苦力に報酬を約束するだろう。そして数日後には穴が塞がれ、また新しい楼閣が建設されるのだろう。
 養素が傍に降り立ち、フラスクボトルを取り出すと、おつかれー、と掲げてみせた。



 いつもの海辺の高楼。芝浜からベルの壜を渡され、養素は嬉しそうに抱える。アル中仙人は、どんな安酒でも喜んで受け取った。
 だが、今日は改めて壜を眺め、首を傾げた。
「これも美味しいけどー、たまにはいいお酒も飲みたくなるよねー。ボウモアの十七年とかー、マッカランの十八年とかー」
 芝浜は眉をひそめる。何を言い出すか。
「贅沢を言うな。そんなもの、この島にはどこにもない」
 遙か遠くの島の酒だった。今時、手に入るはずもない。
「うーん。……なら、あっち行ってみようかなあ。正直、ここの生活も飽きてきたかなあ」
「……島を出て行くのか?」
「そうだねー、あっちに飽きたらまた戻ってくるかもしれないけどー」
 そうか、と小さく呟く。養素なら出て行ける。仙人だから。飛んでいける。
「先生も、一緒に来るー?」
「無茶を言うな」
 人間の身では、飛んで海は渡れない。どれだけ身を軽くして、高く跳べるようになっても。――この島で生きていくしかない。
「じゃあ、お別れかなー。今までお酒、ありがとねー」
 あまりにあっさりとした挨拶だった。
 返事に窮している間に、養素は帽子を取って、芝浜に押しつけてきた。
「そんじゃー、預けておくねー。先生が持ってても、花は出せないけどさー」
「……分かっている」
 代わりに芝浜は、符を入れている革財布を取り出し、養素に渡した。
「あれー、いいのー? 大事なお仕事道具なんじゃないのー?」
「いいんだ。……余計なものは持たないことにした。もっと身を軽くする必要がある」
 そっかー、と受け取りながら養素は応じた。大して興味もなさそうだった。
「じゃーねー」
 手を振って、養素は跳ぶ。そしてそのまま浮かび上がる。地平線の彼方、見えない島へ向かい、振り返りもせず飛んでいく。
 芝浜は黙って見送った。





初出:「文藝不一」第一号(書肆べう)2010.12.5刊
※落語「芝浜」と同じお題、「芝浜」「酔っ払い」「革財布」の三つで何か書け、という縛りでした。