無題(シイとアリス)

 散々だった。
 突然の大雨は、うんざりする間もくれずシイをずぶ濡れにし、下着も靴も等しく不快に貼りついて体温を奪った。顔を伝う水滴は鬱陶しく、銃把を握りしめた手はもう感覚がない。
 そりゃ雨だからって、索敵の精度は多分変わらないけどな。
 口の中で呟く。身体的なコンディションは、好いとはいえなかった。命中精度はガタ落ちだろう。冷たい雨はいよいよ強く、得物はおもちゃのようなポリマーフレームの小さいのが一挺、背の低い廃ビル屋上は半端な高さのある縁が邪魔で、下を狙うなら乗り出すように腕を伸ばさなければならない。
 それでもシイは凪のように落ち着いていた。全くの無音、何も聞こえない。機能が正常に動作している証拠だった。だから焦る必要はない。意識は指先と視覚にだけに集中される。
 地上、照星の先には豆粒みたいな人影が二つ。アサルトライフル武装している。シイの視力なら顔は夜目にもはっきり判別できる、見覚えはない、
 だから、敵だ。
 皆には連絡済み、二人だと言ったら詳細を説明するまでもなく「撃て」と言われて、無茶な、と思う。「撃て」ということは「どちらも戦闘不能にしろ」というのと同義だ。
 銃爪を引けば反動、鼻をつく硝煙の匂い、薬莢は下に消える。でも目標の人影は動揺を見せただけでどちらも立っている。外した!
 ああくそ、こんな仕事させるならもっとまともな武器くれればいいのに! 自身にも聞こえない悪態を吐いて、狙いもそこそこに撃つ。三発外してようやく一人が斃れる。
 直後、銃口が向けられ、シイのいるビルの少し下の壁が弾ける。
 気づかれた!
 怖くはない。雨は泣けるほど冷たいし、弾に当たれば痛いはず。でも。
 静寂の中で、シイは思う。
 何回か経験した銃撃戦で、恐怖を感じたことは一度もない。
 更に六発、残ったもう一方がやっと崩れ落ちる。どこに当たったのか、即死させるのは無理だったらしい。標的はしばらく水たまりでのたうち回っていたが、それきり立ち上がりはしなかった。
 たっぷり三分ほど地上の二人を観察し、再び動き出す様子がないことを確認してから、シイは銃口を逸らす。腕を屋上の縁から引き寄せる。途端に力が抜け、首が勝手にがくりと垂れる。同時に周囲に「音」が戻ってきた。屋上のコンクリートを打つ激しい雨と、意外に荒い自身の呼吸、そして、どこか遠くから届く銃声。 視覚に神経を集中するあまり、聴覚が麻痺する。正常な機能、いつものことだった。乾いていない傷に触れる冷気みたいに、一斉に回復した音たちが、シイの神経を叩く。痛いくらいに。
 煩い。そしてとにかく寒かった。膝を抱えて丸まってみても、自分の体温が感じられる箇所は身体中のどこにもないようだった。また見張りを続けなきゃな、とは思ったが、姿勢を変えることすら億劫だった。
 まったく、散々だ。早く皆引き上げてきてくれればいいのに。


 * * *


 私は何もかも分かっているもの。
 アリス自身はそう思っていた。事実、人より多くのものが視えている。今日、大雨が降ることだって知っていたし、ずっと先のことだって既に知っている。
 アリスは深窓の令嬢か姫君のように遇されていた。最近になってからの周囲の扱いの変化に少し戸惑いはしたが、仕方のないことだと納得はしていた。
 大切にされている、というよりもむしろ、覚悟と諦めを促す無言の圧力みたいなものよね。
 そんな皮肉混じりに肩を竦めて、すれ違うコロニー住人たちのぎこちのない会釈に、屈託のない笑顔で応える。作り笑顔ではない、つもりだった。
 でもいずれそんな余裕はなくなるかもしれない、とも予感していて、「その日」が来ることより、自分の心理状態が平静でなくなる日が来ることをこそ、怖れてもいた。
 それにしても作り物みたい。
 そう呟いて仰ぐその先には、石で組み上げられた建造物が高くそびえる。
 華奢な塔が左右翼端にそびえ、中央には伽藍を思わせる屋根の高い、そして入口の狭い巨大な広間、繊細な彫刻の施された化粧石で表面を覆われて、まるでかつて地球上に現れた仏教寺院のレプリカだった。後ろに小さな枯れた森を背負い、周囲では絶えることなく薪が焚かれ、昼の来ないこの「世界」で常にその偉容を人間たちに知らしめている。寄り添うように遠巻くように寺院の周囲には貧相なバラックの住居が連なって集落を形成している。正に古代のムラを再現したような、それがこのコロニーの姿だった。
 コロニー中央に位置するこの寺院がただの「レプリカ」でないことアリスは知っている。
 知っていた、のではなくここへ来て感じ取った。いつ、誰が建てたものかはもう定かではないらしいが、古びた様子からして既に数百年を閲しているように感じられる。そして古くから住む近隣の住民は、ここへの参拝を日課としている。呼吸をするように信心し、香を焚き、礼拝する。
 建造した「むかしの人」の意図が那辺にあったのかは不明だが、この伽藍は既に「レプリカ」ではない。アリスはそれを、コロニーに連れてこられた一年前のその日すぐに悟った。
 サンダル履きの素足は冷え切っていて、石畳の隙間から覗く草に触れて濡れる。それをむしろ心地よく感じている。十代半ばの細い身体に、伊達眼鏡と酔狂でまとっている白衣、その裾が先ほどまで降っていた雨の水分を重く含んだ冷気に煽られて、アリスはなんだか愉快になってきた。スキップでもしたい気分だった。古代の仏教寺院とその前に佇む似非科学者風の扮装をした女、随分と奇妙な絵に違いない、とそんな風に思っている。
 それは抵抗だった。自身への抵抗だった。旧住民たちの信心に呑まれてその気になってしまうことが、なんて滑稽で哀れだろうと思っていたから、まず衣装で意思表示をしてみた。そして、そんなことをして遊んでいられる間はまだ大丈夫だろう、とも思っていた。
 雨に濡れた石畳を軽い足取りで、正面の寺院入口へと向かう。篝火の下、衛兵のごとく物々しい銃器で武装した男たちの脇を抜け、ぽっかりと開いた扉をくぐれば、だだっ広い空間と、何を祀っているのかも分からない金鍍金の祭壇がある。この中にだけは「昼」がある。貴重な電力を照明に回して、頼りない白熱灯の力で、夜ばかりのこの場所に異世界を現出している。
 常に香でうっすらと煙る中、すり切れた絨毯を濡れたサンダルでぱたりぱたりと、点在する参拝者の間を横切っていく。頭を下げられ、低く何事かを唱えられるのを背後に感じ、アリスは廊下に出て知らず溜息をつく。香の匂いの移った長いブロンドを肩から払って。
 部屋は先日来この寺院の一室に移されたが、寝るときにしか戻らない。大抵は書庫にこもりっきりになる。それはアリスだからこそ許された特権であり、膨大な電力を気兼ねなく使うことが許されている。
 またぱたりぱたりと磨き上げられた石の廊下を進み、狭く急な階段を地下へと下り、重い鉄の扉を押し開ければ、そこが居場所だった。
 無造作に積み上げられた無数のサーバ、音を立てて動作中を示す何かの機器類、ファンの呻吟にオゾンの匂い、這い回るケーブル、照明は消されていても、その異様は灯るいくつのモニタが青白く浮かび上がらせている。
 書物などただの一冊もない、そこは書庫だった。
 安堵にアリスはまた息をつく。