冬の文フリ8P本に使おうと思ったボツ長編断片

 そして朝になり、自分がどこに来たのかを知った。
 簡素な二階建ての宿舎のすぐ裏、というよりすぐ上には、一株のプラーンコーンが天高く育っていた。高さ約二〇〇メートル、茎の根本の直径は一五メートルほどになっているだろうか。はるか上空で、重たげな穂が音を立てて揺れていた。発芽して三年目といったところか。これだけ育てばもう葉の脅威は地上には至らない。周囲には立木が見られなかったが、これはプラーンコーンの葉がなぎ倒したから、というわけではなく、人間たちが伐採したためだろう。
 ここは農場だった。
 元は熱帯雨林の直中であるはずだったが、開墾され、青々とした作物の海が広がっている。遠い樹々の影の上から、今しがた朝日が斜めに差し込んできた。暑期終盤のまだまだ強烈な陽射しが、地表近くにたゆたう薄い霧を切り裂く。葉陰の合間で、ナスやトマト、オクラなどが色鮮やかに輝いた。見回せば、早朝だというのに、畑の中には点々と作業をしている人の姿が見られた。
 プラーンコーンの真下、葉に遮られて日当たりのよくない区域には、宿舎など人々の生活のための建物が連なっている。農作業や開墾作業に使う機械、ロボットの類が何台か静かに待機し、隅には家畜小屋らしきものも見られた。
 散歩がてら、畑を貫くまっすぐな農道をゆっくりと歩く。後ろから、農作業へ向かうのだろう、フローターに二人乗りした中年の男女が追い越していき、おはよー! と気さくに挨拶を残していった。
 ここしばらくうろついていた森の中とは明らかに違う、爽やかな風に思わず眼を細める。緑の匂いを吸いこみながら、ファムは〈ピー〉で地図を開き、現在位置を確認する。
 そういうことか、と思う。
 これは「キャラバン」の一つなのだ。
 農業は同じ場所で何年も続けられない。プラーンコーンの発芽で農地が破壊されるおそれがある。そのため、発芽して二年目以降の安定した株の周囲に、一時的に農地が切り開かれる。ある程度育ち、根を深く広く伸ばした株の近くには、新しい芽は生えてこないため、少なくとも枯れるまでの三、四年は安心して作物を育てられる。地図屋が収集した情報を元に、連合の植生管理局が策定した開墾計画に従って、キャラバンは数年ごとに点々としながら農業を行っている。
 確かにここは、昨年調査した覚えがあった。もちろん開墾される前、他と変わらない熱帯雨林の中で、プラーンコーンもまだ七、八〇メートルそこそこの高さだったはずだ。
 自分たちの調査結果をふまえて植生管理局がGOサインを出し、キャラバンの一つが入植して、たった一年でここまで立派な農場を作り上げたのだ。
「……すごい」
 思わず感嘆をもらす。技術だとか、キャラバンの人たちの情熱だとか、勤勉さだとか。これを成し遂げたベクトルの大きさのようなものに、素直に胸を打たれた。
 そして自分たちの仕事も、この成果の一端を担っているのだ。
 足を止め、朝日にガラス質の表皮を反射させている巨大なプラーンコーンを、ファムは振り仰ぐ。
 一年前の仕事をぼんやりと思い出す。確かここでも、自分の不注意で観測用カメラを一台壊し、伯父から叱られたのだ。
 目頭に熱いものを感じて眼を閉じる。
 そういえばまだ泣いてなかったな、と思う。
 我慢する必要はないはずだったが、今ここで泣くのには躊躇いがあり、ファムは〈ピー〉で表示したままだった地図へと意識を向ける。現在位置には「D―三五開拓地」と素っ気ない名前が記載されていた。そして誰が付けたのか、コメントが追記してある。――「ハヌマン・キャラバン参上! 得意技はトマトの糖度上げ!」
 口元が泣き笑いの妙な形になったのを、自分で感じ取った。
 ハヌマン・キャラバンか、と口の中で呟く。なんとなく、憶えておこうと思った。


 助手席には片手に載るほどの小さな箱。中には「伯父だった粉」と「伯父の中にあった副脳」の両方が入っている。ダッシュボードにしまった方が収まりはいいが、心情的に抵抗があった。
 これ、お土産、と運転席の窓から差し入れられたのは、一盛りの野菜の籠だった。一目で穫れたてと分かる、トマトの鮮やかな赤、茄子の紫紺、青い匂い。
「辛いだろうけど、美味しいもん食べて早く元気になるんだよ」
 割腹のいい中年女性は、今朝、おはよー! と声をかけてくれた人のようだった。ありがとうございます、と戸惑いながら受け取り、どこへ置こうと少し迷う。結局、とりあえず助手席に置き、伯父の箱は、ちょっと落ち着かないがその上に載せた。
「仕事、もし替えたくなったらこのキャラバンに来るといいわ。地図屋の経験者は重宝がられるわよ。プラーンコーンに寄生しているようなコニュニティだし、専門家がいてくれると助かるもの」
 中年女性の背後では、昨日とは一転して白衣姿のマ・レイが、ポケットに手を突っ込んで、そんなことを言う。
「もうしばらくは続けてみます。仕事を教えてくれた伯父さんのためにも」
「そう。ならいいわ」
 軽い口調だったが、ファムの選択を指示してくれるような響きが感じられた。
「それじゃ、お世話になりました」
 頭を下げると、見送りの人々が一斉に手を振ってくれた。名残惜しいな、と思いながら車を出す。もう何泊かして心身共に休養を取るべきだ、と勧められたが断った。母に訃報を伝えることを含め、やることはまだあったし、今から出れば夜遅くなる前に、猫眉河の足留桟橋に着けそうだった。
 森の中の悪路を二時間、南へ。空の端がまだ白っぽいうちに、一般道へ出られた。スピードの出ない旧いオフロード車は、ここでは鈍重な亀のようなものだった。端のレーンでゆっくり走り、最初に見えた商店の黄色い灯りに吸い寄せられるように停まる。
 軽食店とも雑貨店ともつかない、屋台に毛の生えたような店だった。買ったのは、焼飯と豚の串焼きを二本、香片茶を一瓶。あとはもらったトマトを一つ、車の中で平らげる。
 どうも計算が狂ったようだった。このペースだと、桟橋についても最終の船には間に合わないだろう。今日は桟橋で一泊するしかないか。今から行って、宿が取れるだろうか。
 ネットで確認してみればいいのだが、なぜか億劫でやる気が起きなかった。
 だめだったらまた車中泊でもいいか、と思う。
 諦めがついたら、急ぐ気も起こらなくなった。腹ごなしにもう少し休憩するつもりで、〈ピー〉へと意識を向ける。新しいアイコンがいくつか増えているのを確認して、伯父の仕事環境をもらってきたことを思い出した。


 副脳にね、疵がついているの、とマ・レイは言う。
 キャラバンの居住区の一角にある、診療所だった。白衣姿の女性レンジャーは、医師の席に違和感なく座り込み、足を組んでいる。向かいの円椅子に軽く腰かけたファムは、どうにも落ち着かない。昨日の活動的なレンジャーの制服姿とは、あまりにギャップがありすぎた。
 本来の職業は医師なのよ、と言うが、白衣を着て目の前にいても、まだぴんと来なかった。
「君の伯父さんの副脳を再起動していて気がついたんだけれど。伯父さん、若い頃に脳クラックされた形跡があったの」
「……脳クラック、ですか?」
 ファムは問い返して、眉をひそめる。詳しくはないが、副脳をクラックし「本物の脳」の記憶にまで干渉する技術があるらしい。もちろん犯罪行為だ。生前、仕事と日常生活の細々としたことくらいしか話すこともなく、軽口の一つも叩かない、真面目一辺倒の人だっただけに、そんな不穏な単語が出てくるとは思いもしなかった。
「時期的に、天地講のテロがもっとも過激だったころね。プラーンコーンをナパームで焼き払ったりしていたころ。地図屋さんも何人も巻き込まれて、誘拐されたり、殺された人もいたらしいわ」
 マ・レイは腕を無理に伸ばした体勢で、デスクの上にあるキーボードを叩く。大時代な代物だな、とファムは思うが、そういえばこの診療所にある設備は、どれも旧そうなものばかりだった。
「私の憶測だけど、多分、伯父さんもそういったことに遭遇したんじゃないかな。見てはいけないものを見て記憶を消された、とか。もちろん無事解放されて、そのあとずっと地図屋の仕事を続けてこられたわけだけれど。クラック痕は、歴戦の勇者の古傷、ってところかしらね。ひょっとしたらその時、フェイ・アンにも対面していたのかもしれないわね」
 半白の髪に皺の刻まれた、伯父の顔を思い出す。天地講など、生まれる前に存在して殲滅されたテロリスト集団だ。自分の中では歴史に分類される話で、実感としてイメージはできない。連合維持局などは未だに神経質になっていて、広報でフェイ・アンの顔を目にしたりもするが、あれが伯父には現実の脅威だったのだ。